この本を読んだ。
印象に残ったのが村中李衣氏のお話。
「子どもに寄り添うとは、どういうこと?」の項では、声の大事さについて語っている。たとえば「宿題やってこなかった人、手挙げて」だと積極的に挙げようという子は出てこない。しかし「元気よく手を挙げて!」に変えるとパッと挙がるようになるというのだ。「元気よく」と発音するとき、口の中に小さな風が起こるでしょうと。その風は自分の心の中にも起こるものだと。だから「元気よく」と付け加えて声に出したとき、受け手の方は「この人は自分を問いただす意味で手を挙げてと言ってるわけじゃないんだ」と、声で感じることになるという。声に込められたものは、意味内容以上に大きなものだと。
間に挟まるのが「1分間の冒険」というワークショップ。
二人組を作っておこなうものだ。その中に悪さをした子供役とそれを叱る親(先生)役に分かれ、親(先生)役は1分間と思う時間説教をし、子供役は1分間と思う時間だけその説教を聞くという面白いものがあった。それぞれ立ったまま行い、1分経ったなと思う時間がきたら、相手に構わず座るというものだ。
案に相違せず、説教側の1分は長引き、される側の1分は短くなった。
お母さんや先生と、子どもと、同じように向き合って同じ場所にいても、流れている時間は多分違いましたよね。1分間は同時でしたか?ずれていましたよね。
それと同じく、書き手が児童文学を作るときや、先生が子供たちに何か良い事を伝えようとするときも、受け手である子供はもう十分だと思っても、書き手や話し手の方がもっともっとと力が入りすぎてしまうきらいがあるという。絵本の読み方ひとつでも、こう読まなければならないと強く思いすぎると、聞き手とズレていってしまうこともある。
(集団に向けての)読み聞かせの指導でよく言われるのが「感情を込めて読むと子供たちに特定のイメージを与えてしまうので、淡々と読むのがいい」ということ。読み聞かせの講座などでも受講者からこれについて質問が上がることがある。
何回か読み聞かせ(とか練習とか)してればわかるけど、淡々と、なんて無理なのだ。
本当のところは、最初に「淡々と読むのがよろしかろう」とおっしゃった先生方は、「本の世界を壊さないような、尊重した読み方をしましょう」ということだったと思うんです。それがいつの間にか読み方のノウハウにすり替わってしまったために、混乱しているのだろうなと思ったんです。
村中さんは大学の先生でもあるので、医学部の先生方の協力も仰ぎ実験してみたという。
読み手は初心者とベテラン、二つのグループで実験。昔話絵本と創作絵本とで、それぞれ淡々と読むのと自由に読むのとで分け、読み手と聞き手それぞれに脳機能計測を用いて緊張感やリラックス具合を調べてみたという。
聞き手の方は、淡々と読もうが抑揚をつけようが、大して変わりはなかった。無意味な発声を聞かされた時と比して、どちらもはるかにリラックスした状態だったということだ。つまり脳のレベルでいえば、どっちも変わらないということだ。
しかし読み手の方は違いがあったという。たとえば昔話を淡々と読む実験。
ベテランの方は昔話を淡々との指示でも、無理してロボットのように読むわけではなく、作品に合った読み方に落ち着いていくので、中盤あたりになるとリラックスする様子が見られたという。
一方の初心者は淡々との指示に添いすぎるがあまり、昔話の抑揚を押し殺そうと無理を重ね、強いストレスがかかった状態が見られたそうだ。
ということは、これから絵本の読みを勉強しようという人に、あまり形で指示を出しても意味がないということなんです。それよりも、作品ときちんと向き合い自分の声をよく聞いて、そこで自分の声を聞いている人と自分の間に流れているものを大切にすれば、よほどおかしい読み方や場にはならないだろうと思うんです。
「声の道」のワークショップの様子も興味深かった。
相手の胸にまっすぐ声を届けるというのはうれしいことなのだと。受け止めてもらった側も、受け止める側もそれぞれうれしいものだと。
だから、本を読んで届けるというのは、単に使命というだけではなくて、うれしいことなんですね。
「絵本の特質を考え直す」の項では、大型絵本の問題についても話されていた。
保育や幼児教育の実習に行くと、学生は大型絵本を使いがちのようだ。確かに小さい絵本だと見にくいかなと思う気持ちはわかる。ある学生の話によると、自分が大好きな『からすのパンやさん』を読んであげようと大型絵本を使ったらいつもよりすごく疲れてしまったそうだ。
同じ作品でも、大型絵本になると、目で捉える情報量が大きすぎるために疲れてしまうんです。『からすのパンやさん』は、画面からあふれるほどのパンの焼けた匂いや、いろいろな種類のパンに目が回るような気持ちが、あのサイズだからこそちょうどエネルギーのつじつまが合うんです。
『ねずみくんのチョッキ』に至っては、オリジナルと開き向きが逆で、セリフが付け加えられているところもあるという。オリジナルと大型での展開が少し異なることについて、子供たちにとっては大きな違いになるという解説は、安易に大型絵本を使うことへの戒めにもなった。
ですから、とても大切な作品であればこそ、その一冊がその形でそこにあることの意味を考えたいですし、それをしてくださるのも皆さんの力だなあと思います。くれぐれも、「読みやすいように」「見やすいように」ということだけで大型絵本の方に走らないよう、気にかけていただきたいなと思います。
気づきがあったのは、ペーパーバックとハードカバーの違い。大型絵本の問題は、以前受講した読み聞かせの講座でも触れられていたので、オリジナルのサイズ感を大事にしなければならないことは知っていたが、ペーパーバックとハードカバーでも違いが出るとは意識したことがなかった。
『てじな』は、「こどものとも」年少版として出版されたが、その後ハードカバー化された絵本だ。村中さんが子供たちにそれぞれ読んだところ、面白い反応の違いが見られたという。
ペーパーバックで読んだときは、読み終わったとき子供たちから「おっちゃん、もう一回やって!」と登場人物に声がかかったという。一方ハードカバー版では「李衣さんもう一回読んで!」と読み手に声がかかったというのだ。
子どもたちと直に結びあえるお話のときには、どちらかといえば、ペーパーバックの方が向いている。ハードカバーは逆に、その枠の中でお話を楽しんでいるということが意識される場合にいいんじゃないかと思うんですね。
『はなをくんくん』は、イギリスではペーパーバックとして出版されていたが、断然ハードカバーがいいという。ハードカバーだと、表紙の縁の黄色が効いてくるというのだ。
単純にハードカバーが貸出中というだけで、月刊誌バージョンを使ったりしたこともあったが、本の体裁だけで雰囲気が違ってしまうというのは思ってもみなかった視点だった。
絵本は生き物であって、その中にだけ答えがあるんじゃないということです。その生き物をどう育てるかというのが、絵本を読む人と読まれる人の響きあいなんだということ。
こうして、講演を文字起こししたものを読むだけでも参考になったが、やはり実際に講演を体験したみたかったなあと思った。村中さんの声を体感しないとわからないところもあるのだろうなと。
インフル流行中で小学校の読み聞かせは一時中断を余儀なくされているが、残り少ない回数、村中さんの話を心に留めながら活動しようと思う。