2023年6月1日

『小さき者たちの戦争』読了。

冒頭紹介されるのが、北御門二郎の講演会でのこと。北御門さんはトルストイの翻訳家、トルストイに強く影響を受けた絶対非暴力の思想を実践している。先の大戦では良心的兵役拒否を貫いた。

著者はその講演会での質疑応答で、こんな質問をぶつける。

暴力はどんな時でもふるってはいけないというが、暴漢がやってきて我が子に襲いかかろうとしているその時でも、暴力で対抗してはいけないのか?

と。

北御門さんは「いけません」とキッパリ答えたという。

じゃあどうすればいいのか、ただ黙って見てろというのかと食い下がる著者に、

いいえ。暴漢と子供の間に入って、子供をかばいながら必死に命ごいするんです。

と諭したという。当時幼い子を抱えていた著者は納得できず、そんなことはできないとヒステリックに言い募るしかできなかった。

 

平和は大切なものだ。一方で平和を守るためには暴力が必要だ、という言説もある。ひとたび戦争になれば、被害ー加害の問題は一筋縄ではいかなくなるし、戦死ひとつとっても英霊なのか犬死なのかという問題にも直面する。

そこに橋をかけられないだろうか。

というのが、この本の原点なのだ。当時は北御門さんの有りように納得できなかったけど、年齢を重ねた今なら、もう少し考えることもできるのではないか。

 

本書を読んで実感するのは、ひとたび戦争になってしまえば、もう取り返しがつかないということだ。取り返しがつかない事態がたくさん起こってしまうということだ。ただ、大事な人が殺されたりするだけではない。ただ、大事な場所が破壊されたりするだけではない。こちらも、大事な人を殺したり、大事な場所を破壊したりするのだ。否が応でも。

第一章の宮崎さんの話が印象的だ。

宮崎静夫さんは画家。自らの戦争体験をもとに描き続けてきた。満洲、シベリアと壮絶な体験を重ねてきた人なのだ。

義勇兵訓練所では少年兵へのリンチ殺人を目の当たりにする。空腹に耐えかねてぜんざいを盗んでしまったのだ。

小説を読んで軍人にあこがれ、関東軍に入隊したものの、待っていたのは小説とは天と地ほどもかけ離れた軍隊の醜悪さと自爆攻撃ともいえる無謀な攻撃訓練。

満洲では中国人の集落にかっぱらいに出かけ、トイレを借りに入った家に抗日、反日と大書してあるのを見て、自分たちが何者なのかを思い知らされたともいう。

戦後、ノモンハンに出かけた宮崎さんは、不意に、自分も死ぬけれど、向こうも死ぬのだと言うことに思い至る。相手も故郷に家族や恋人がいて、はるばる戦場に送り込まれてきた人間なんだと。60年以上経ってやっと気づくなんてね……と振り返っている。

 

著者は、北御門さんの考えの、真の意味を理解する。

すなわち、ほんの少しでも暴力を正当化してしまえば、そこから一気に平和の論理は崩れ去っていく。巨大な暴力である戦争までたどり着くのはほんの一息なのだ。

しかし、家族に危機が迫っている時に、非暴力を貫くのは容易なことではない。

じゃあどうすればいいのだろう?著者は宮崎さんにその思いをぶつけてみる。

それに対し、宮崎さんはこんなことを語っている。

絶対非暴力を個人の理想として掲げるのは立派だ。

でも、北御門さんが戦争に行かなかったことで、代わりに誰かが行かされているわけだ。その一人は死んだかもしれないし、人を殺したかもしれない。北御門さんの兵役拒否がステータス的に扱われるのは違和感を覚える*1とも。

人々が熱狂し、世の中が一つの方向に流れ始めれば、たとえ一人信念を貫いたところで、別の犠牲者が出るだけになるというのだ。

だからこそ一個人の暴力忌避にとどまるのではなく、一つの方向に向かおうとする流れを押しとどめ、はね返すためのうねりを、世の中に起こす努力が大切なのではないでしょうか。これじゃあ、答えになっていませんかね

 

絵を描きながらも、宮崎さんは無力感に襲われるという。

ゴヤピカソも戦争がなんたるかをあれほど描いて知らしめてきたのに、一向に戦争はなくならない。絵のもつ力なんてほとんどないんじゃないかと。

それでも、宮崎さんはこう言う。

ヒーローの美名の下には、虫けらのように死んでいった人間が無数にいるんです。その虫けらに自分がされるということに気づいてほしい。だから私は絶対に偉い人間は描かない。これからも虫けらの目で見た戦争を、描き続けるのだと思います。

宮崎さんはまたこうも漏らしている。

私たちは生まれた時から昭和でしたから、軍国主義的な教育にどっぷり浸かって育ちました。だからちょっとやそっとでぬぐい去れるものではありません。軍服は皮膚と同じなんです。ぬぐってもぬぐっても残るものを生涯かけてぬぐう。それが自分が絵を描く理由かもしれません。

私には息子がいるけれど、自分の子が多感な時期に軍服が皮膚と言うほどの教育を受け、こんな思いで生涯を過ごさなければならないかと思うと、気が狂いそうになる。戦争で息子を失うのも恐ろしいが、息子が戦争に行って人を殺してくるのも同じくらい恐ろしい。息子はきっと虫けら、小さき者としての立場にしかなり得ないから。

 

戦争ダメ。平和絶対。

聞き飽きてもうただのお題目にしかすぎないような言葉が、この本を読むと真の意味で迫ってくる。ああ本当に戦争はダメなんだ。絶対に平和を守らなければいけないんだ。

私たちは今、ウクライナへの侵攻を可哀想にと、対岸の火事みたいに眺めていて、ロシアを激しく憎む気持ちがあるけれど、そんな単純な気持ちでいられるのも遠い国の戦争だからだ。

現地の人たちはそんな単純な図式で生きてはいない。

たとえ祖国のためであってもロシア兵を殺したくないと思うウクライナ人もいるだろうし、殺されて当然と思われがちなロシア兵だって一人一人家族がいて、誰かの大事な人でもあるのだ。戦争はそんな当たり前のことを一気に消し去っていく。

*1:北御門さんの娘さんと思しきブログには、その兵役拒否は決して一人信念を貫いたとかいう性質のものではない、という趣旨のことが書かれている。確かに当時の兵役拒否は限りなく重いものだっただろう。父親との確執だけでなく、各所で大きな摩擦があっただろうことは想像できる。大きな流れに一人抗うというのは、とてつもない力が必要なのだ。この本で語られる小さき者たちと同じく、北御門さんもまた戦後という重い荷物を背負ってきたことは間違いないことだ。

『小さき者たちの戦争』 : 阿蘇の麓の本屋の本音