2023年10月30日

fireescape.hateblo.jp

↑この記事で、女の話は聞いてもらえないと書いた。

男の話しか出てこないことに、憤懣やる方ない気持ちを抱いたのは、おそらく↓この本を同時期に読んだせいだろう。

女が存在しないものと扱われている、人間として扱われていない、その最たる状況が性暴力だ。

作者のムクウェゲ氏は先にノーベル賞を受賞した医師だ。性暴力を受けた女性たちの支援に長年携わっている。

女性が読むにはいささかつらい本だ。

これでもかこれでもかとばかり非道な性暴力を受けた女性の話が出てくるからだ。なぜここまで私たち女性は虐げられなければならないのか、怒りと悲しみが込み上げてくる。

性暴力は二つの側面を持つ。

一つは女性の心身に対する直接的な暴力。彼女たちは心身ともに深く傷つけられる。

そして女性の社会的地位に対する暴力。性暴力を受けたことで彼女たちは社会的な居場所も喪失するのだ。暴力によってセックスや出産が不可能になったことだけでなく、男に穢されたという不名誉から。女性としての居場所がなくなってしまうのだ。

ムクウェゲが治療した一人の女性。彼女は紛争に巻き込まれて民兵に家族を殺され連れ去れられた先でレイプされ続ける。1年近くの間、劣悪な環境に置かれ病気や怪我に苛まれていた。地獄のような生活は、妊娠し放置されたことで終わりを迎える。その後野外で一人ぼっちの出産は過酷を極めた。赤ん坊が出てこなかったのだ。死んで胎内で小さくなった赤ん坊をようやく“出産”できたときには、彼女の下半身は完膚なきまでに壊されていた。膣が破損し直腸と膣、膀胱と膣の間に二つのフィスチュラ(瘻孔)ができていたのだ。

ムクウェゲ医師の元にやってきた彼女の傷は、半年間の懸命な治療ののち完治する。村に帰る時期が来たとき、村に帰りたくない、帰ったらみんなに指をさされて笑われるからと懇願する彼女。しかし願いは虚しく送り出されてしまう。治療を必要とする女性は次から次へとやってくるので、ベッドを空けなければならないからだ。

その後彼女はムクウェゲの元に舞い戻ってくる。新たな傷を負って。村が再び民兵組織に襲われ捕らえられた彼女は一度目と同じ恐怖を体験する。そしてフィスチュラを再び負ったのだ。おまけにHIVに感染していた。当時は死の宣告にも等しいものだった。

ムクウェゲが面会したとき、彼女は怒りに燃えていた。村に帰りたくないと言ったじゃないかと。

「あなたが強要した!」彼女は叫んだ。「たったひとりで私を帰らせた!」

レイプされたことを知られ、家族もなんの後ろ盾もない若い女性が、こうした社会で生きていくことの難しさは痛いほど理解できる。社会的にも傷を負った彼女たちが、安心して暮らしていける居場所が絶対に必要なのだ。

 

皮肉なことに、フィスチュラ治療の技術も、弱い立場の女性を踏み台にして確立したものなのだ。ある若い女性など、麻酔なしで30回もの手術の実験台にされたという。「現代産婦人科の父」は、黒人女性を人間ではなく単なる実験動物として扱う男でもあった。私たち女性は、自分たちのための医学の進歩を素直に喜ぶことさえできないのだ。

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人間ではなく実験動物。

あるときムクウェゲの元に、資金援助を求める青年が訪ねてくる。彼は子供の頃民兵に囚われ戦いを強いられる中で、組織への忠誠の証として母親の手足を切り落とすよう強要されるという悲惨な目に遭っている。組織から脱出し生活を立て直すために、資金援助が必要だというのだ。

しかし彼は数々のレイプの加害者でもあった。女性たちの治療に当たってきたムクウェゲは、なぜあんな過酷なレイプや暴力を行使する必要があるのかと彼に問うた。

彼の答えにムクウェゲの血は凍った。

「ヤギやにわとりの首を切るとき、なんの疑問も抱かないでしょう。女もそんなものです。自分が望むことをやっただけです」

「現代産婦人科の父」が、黒人女性は痛みなど感じないと思い込んでいたように、レイプし傷つける男性たちもまた、女性たちの痛みには無関心なのだ。ヤギやにわとりと同じで、人間とも思っていない。自分の好きに扱っていい存在で、その命すら軽んじていいモノとして見ている。女性にとってこれほどの恐怖があるだろうか。

これは別に、紛争中でレイプが横行する特定の国の男たちだけに当てはまることではない。

どんな状況であれ、どこの国であれ、男性がレイプにおよぶとき、その行為が暴露するのは、自分のニーズと欲望が最優先で、女性は利用され虐待されてもよい劣った存在であるという考えだ。

 男性がレイプするのは、女性の命を自らの命ほど重視していないからだ。性的満足を得るために自分の力を悪用してもとがめを受けないとわかると、そこにつけ込むのだ。

 権力を濫用しても罪に問われないと男性が考えたとき、何が起きるのか。平和な国で法秩序が崩壊すると、その一端が見える。そうした状況では、性暴力が急増する傾向があるのだ。

反戦運動平和運動には女性の担い手が多いが、それも当然だ。平和や秩序が失われると、即自分たちに危機が訪れるからだ。

平和や秩序がある世界でも、女の声は届かないことがある。女の話は聞かれないこともある。まして暴力と紛争に満ちた世界では、女の悲鳴など耳に入ることはない。暴力や紛争が止んだ後ですら、女たちが上げていた悲鳴は無視され続けたままだ。あたかも存在しなかったかのように。

 紛争のレイプ被害者に捧げられた像や敬意の証が、世界中にどれだけ建てられているのだろうか、と私は考えるようになった。フランスとイギリスのほとんどの村には、第一次、第二次世界大戦の壮絶な戦いで命を落とし、あるいは負傷した兵士を記憶する、なんらかの記念碑がある。毎年の式典で、政治家たちは兵士たちの勇敢さに敬意を表す。彼らの犠牲をけっして忘れてはならないと人々は言う。その通りだ。

 しかし、ドイツ軍、ロシア軍、連合国軍に銃を突きつけられレイプされた、あるいは自分や家族を救うためにセックスを強要された、何十万、何百万という女性もまた被害者であったことを、誰が覚えているだろう。そうした強制された関係から生まれた子どもたちを覚えているものはいるだろうか。

女性たちの悲鳴が届かないのは、それを聞く人がいないからだ。歴史を書くのはジャーナリストの仕事だが、その多くは男性で、何をニュースとするかの上位の決定権も握っている。まして戦争報道となると男性の独壇場で、女性記者が参入する余地はない。なぜなら取材中、ハラスメントや暴力の危機に直面する可能性が高いからだ。しかし、性暴力を含む暴力の加害者は男性である以上、被害を受けた女性の声を掬い上げられるのは女性の方なのだ。

日本も他人事ではない。

先の大戦での従軍慰安婦の問題は、韓国との関係に暗い影を落とし続けている。

韓国は慰安婦像の設置をはじめ博物館も設けられており、女性たちの受けた苦しみが周知のものとなり、政府から公に認められている国でもある。

しかしこの「戦争と女性の人権博物館」は、立地をめぐって論争が起き建設に至るまで何年もかかったという。一部の韓国退役軍人会が、独立闘争の「殉教者」を称えるソウルの公園内に建てるという当初の計画に反対したからだ。自国の元軍人男性からすら、汚れた存在として見なされるのに暗澹たる気分になってくる。

まして加害側である日本の中には、自国の関与を認めようとはしない向きも存在している。曰く女性たちは進んで売春婦になったとか、売春を強要した直接的な証拠はないだのと。

本書では触れられていないが、満蒙開拓団でのソ連兵への性接待も戦時の性暴力の一つだ。

ソ連兵への「いけにえ」にされた女性は蔑視された…満蒙開拓団の少女が証言する「性接待」のやるせない記憶 女性たちを守ったのに、その女性たちが心無い言葉をかけた | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

集団を守るため犠牲になったのにも関わらず、「汚れた女」として貶められ、差別的視線にさらされている。男性からのみならず、同じ女性からも心ない言葉をかけられているのだ。慰霊碑自体は1980年代に建てられているが、犠牲になった女性たちの働きは秘せられたままだった。ようやく明るみに出てきたのはつい10年前、2013年ごろのことだ。それをきっかけに慰霊碑に付け加えられたのもつい最近のことなのだ。

乙女の碑 - Wikipedia

女たちは長年声を上げることすらできなかったのだ。虐げられた記憶を押し込めたまま、心の奥底で悲鳴を上げ続けるほかはなかった。彼女らが語り始めない限り、その声は誰にも聞かれないままだった。

女たちが声を上げるのは簡単なことではない。

インドに住む低カーストの少女が、同村の州議会議員を務める上カーストの男からレイプされた。彼女は同じ立場の女性としてはめったにない行動に出る。警察に訴え出たのだ。警察は申し立てを拒否し、診察した医師も訴えを取り下げるよう勧告した。しかし少女は諦めなかった。さらに飛び越えて地元の裁判所へ、州警察へ、さらには他の政治家にまで訴えたのだ。その結果どうなったか?家族は脅迫を受け続け、父親に至ってはでっち上げの罪で逮捕されてしまう。挙げ句の果て、警察に殴られた傷がもとで拘留中に死亡してしまうのだ。絶望のあまり少女は焼身自殺を図ろうとするが、それで世間の注目が集まり、とうとう連邦警察が動くことになる。くだんの男は尋問されついに逮捕される。しかし身の程知らずの訴えに対する、代償の支払いはまだ終わっていなかった。彼女と弁護士、叔母二人が乗る車に、トラックが突っ込んできたのだ。二人の叔母(うち一人は事件の重要な目撃者だった)は死亡したが、少女はかろうじて一命を取りとめた。加害者の男は有罪判決を受け、終身刑を言い渡されたものの、払った犠牲はあまりにも大きかった。

女たちばかりではない。

傷ついた女たちを救い、声を届け続けるムクウェゲ自身、何度も命の危険を感じさせる危機に陥っている。自国の大臣から脅しをかけられ、スピーチの中止を余儀なくされたこともある。

ムクウェゲは、G7に出席したとき、首脳の中に女性が一人しかいない(ドイツのメルケル)ことに衝撃を受けているが、私も我が国の政府主要ポストが男性に占められ続けていることに絶望している。何年も何年も適材適所というお題目のもと、あたかもやる気や能力のある女性が少ないとでもいうように、男たちは公然とポストを独占してきた。女性「も」権力を持たない限り、女たちの声が届くことはない。そしてひとたび秩序が崩れると、女たちの悲鳴はすぐ封じられたままになるのだ。