2023年10月31日

fireescape.hateblo.jp

↑福田村事件は、直接描かれる被害者こそ「日本人」だが、朝鮮の人たちへの流言蜚語に端を発している。

↓この本は、非常事態下での流言蜚語、特に「外国人が犯罪をした」という流言の実例をもとに、その発生と拡散の要因を探ったものだ。

作者の郭基煥氏は、東北の大学で教鞭を取る社会学者。

大学HP→経済学部 共生社会経済学科:郭 基煥 教授|東北学院大学によると、

私は韓国にルーツを持ちつつも、日本で生まれて育った、いわゆる「在日三世」です (私は韓国というルーツも日本で生まれ育ったという事実も共に同じくらいに大事にしたいと考えています)。 専門は社会学です。差別問題、その中でも民族差別の問題に関心をもっています。

という背景を持つ方だ。つまり、ひょっとすると被害当事者になり得る人なのだ。

今「なり得る」と現在形で書いた。

しかし過去、加害当事者側であった日本人としては、これを絶対に過去形にしたい。二度と関東大震災時と同じようなことを起こしたくない。

それこそが作者の願いだからだ。

 日本人による朝鮮人虐殺事件から100年目の九月一日が目前に迫っている。異郷の地で経験した未曽有の火災の渦中に、いわれのない犯罪者の汚名を着せられて殺害された人たち。当時、法的に「日本人」にされていた彼ら、彼女らは殺される瞬間に何を思ったのだろう。永遠に知ることのできない問いの前に立とうとする日本人が少しでも増えることを願ってやまない。(389ページ)

一方「なり得る」と現在形で書いたのには、理由がある。

まさについ最近、東日本大震災においても外国人犯罪の流言があったからだ。

郭教授は震災時仙台で被災しているが、ご自身の耳でその流言を聞いている。

そんなことが本当にあるのか。それを在日朝鮮人の私に言うのか。そう感じつつも、口にすることはなかった。口にすれば場の雰囲気が悪くなると、どこかで恐れていた。(387ページ)

教授が震災後知り合った仙台在住の韓国人留学生の中には、避難中関東大震災後の朝鮮人虐殺事件を思い起こしたと語る人もいたという。東京在住の在日朝鮮人の知り合いには、一人仙台に残ろうとした教授に、一時避難する妻子とともにソウルに行くよう何度も促されたという。

東日本大震災後に外国人への暴行が起きた事実は確認されていない。しかし、そのリスクがなかったと言い切れるのか。この問いは、仙台で震災を経験した在日朝鮮人の研究者である私が取り組むべき問いだと思ったのである。(387ページ)

流言は、郭教授が聞いたものだけではない。教授が実施した「東日本大震災の体験と多文化矯正の実態調査アンケート」によると、現実に、中国人をはじめ近隣諸国外国人を犯人に仕立て上げる外国人犯罪流言が発生しており、仙台市の三区では過半数、東京の新宿区では4割もの人たちがそれを耳にしているのだ。しかも両地域で聞いた人たちの8割以上が信じていたという。

アンケート結果の一部はメディアでも紹介されたが、本当に残念なことに、ネットの一部では教授に対する中傷が起こったという。曰く「デマが発生したというデマを垂れ流して、日本を侮辱する反日教授」だと。

日本に対して批判的な議論を展開した人に対して、むやみに「反日」のレッテルを貼る人たちが理解していないと思われることは、社会の現実への批判は常に社会の可能性に対する信頼に基づいている、ということである。批判の激しさは信頼の深さの現れでもある。外国人犯罪流言を繰り返していると私が日本社会を批判するのは、日本社会が実態と乖離した流言から自らを解放する潜在的な可能性を信じているからである。可能性を信じなければ、批判するより沈黙するはずであろう。(388ページ)

「異郷の地で経験した未曽有の火災の渦中に、いわれのない犯罪者の汚名を着せられて殺害された人たち」は、後から語ることはできない。当時殺害を免れた人たちも、口を開くことはできなかった。“外国人犯罪流言”というが、彼らは当時「外国人」ですらなかった。無理矢理日本人にさせられた立場なのに、不逞鮮人というレッテルを貼られ無惨に殺されていったのだ。

郭教授が届けたいと願うのは、かつての私たちに殺された、名もなき同朋たちの声なき声でもあるのだ。

レッテル貼りというと、乱暴に一括りにするみたいなイメージがあるが、その内実はひとまとめにして「否定的なラベルをつけること」だ。不逞鮮人という呼び名は、マイナスの側面を強調した「非人間的なラベリング」ともいえる。

↓この本にも「非人間的なラベリング」についての実験が紹介されているが、非人間的なラベルづけがなされることで、相手集団に対しより強い攻撃が行われる傾向にあったという。個人のレベルであっても、たとえば格闘ゲームでの実験では、対戦相手が「ゴミ」という名前であると、対戦相手への共感的配慮が低くなったという。

fireescape.hateblo.jp

否定的なラベリングが行われる背景には、報道も関わってくる。どの国の人が「流言蜚語の主要なターゲット」になるかは、非常事態発生時までの数ヶ月間の、外国人に対する報道の仕方に大きく左右されるという。たとえば阪神淡路大震災時には、中国人やイラン人をターゲットにした流言蜚語があったというが、この時期中国人とイラン人に関する否定的な記事が多かったという。東日本大震災時は中国人に関する流言があったが、尖閣問題でちょうど中国との関係がぎくしゃくしていた時期でこの問題に関する報道も多かった。関東大震災の前には、もちろん、朝鮮人の抵抗運動を「暴徒の蜂起」とし、彼らを不逞鮮人と呼ぶ、否定的な報道が繰り返されていた。

どの国の人、といっても外国人犯罪流言で語られるのは、ほとんどの場合、中国人、朝鮮人、韓国人といった近隣諸国の人々が多い。郭教授は、

日本が侵略し植民地支配をしたアジア地域の人々を、戦前も戦後も、火事場泥棒の犯人に仕立て上げてきたのである。非常時の外国人犯罪流言は、語られている外国人が何者であるかではなく、語っている日本人が何者であるかを物語っている。(380ページ)

と手厳しく語っている。

近隣諸国の人々が多いというのは、地理的な近さから対立関係になりやすいことも影響している。先に引いた『暴力と紛争の“集団心理” 』でも、

 集団間紛争・競争状況下で、集団アイデンティティが攻撃性を強めるのはいったいなぜなのか。それは、日本人としての集団アイデンティティが強い人が、どこの国の外国人を嫌いなのかを考えると理解しやすいだろう。彼らが敵意の対象としているのは、中国や韓国、北朝鮮といった政治的・歴史的な対立関係が指摘されることの多い国の国民であることが思い浮かぶだろう。(『暴力と紛争の“集団心理” 』33ページ)

と書かれている。愛国心が強い日本人であっても、対立関係があまりないような国、たとえば「サントメ・プリンシペ」の国民に対して、敵意を向けることはあり得ないだろうと。ある国や国民に対し攻撃的な姿勢を見せるというのは、長年の対立関係からその国に対して脅威を感じ、日本を守るためにはそれらの国を攻撃することさえ厭わないという心理の現れなのだ。

その心理ゆえに、非常時の流言蜚語が繰り返し起こるのかもしれない。普段から、多かれ少なかれ、脅威に感じ敵対意識を持っているからこそ「現実から乖離した集団的な思い込み」に発展してしまうのかもしれない。

そして、ひとたび拡散した流言が、事後に虚偽だったと社会全体で共有されたことは一度もないという。

非常時に近隣アジアの人に犯罪者の汚名を着せたあと、その汚名を放置しておく無責任が、一〇〇年近く繰り返されてきたのである。(380ページ)

郭教授の指摘は、日本人として本当に耳が痛い話だ。一度流れてしまった流言蜚語が、流言蜚語だったときちんと認められることはない。そんな噂もあったねーなんだったんだろうねで終わりだ。あとから話題に上るならまだマシで、そんな流言蜚語などなかったかのように、忘れ去れられていく。メディアなら公に訂正が入るけれど、流言蜚語の責任は誰も取ることができないのだ。誰も取ることができないからこそ、私たちみんなの責任にもなってくる。

私は、流言蜚語を信じない。それ本当の話なの?ってちゃんと言う。

本当にできるのか?非常時に?誰もが不安やストレスを抱えているときに?

内心で流言蜚語として信じないことはできるだろう。でもそれは本当の話なのか?真偽がわからない話を鵜呑みにするなと釘を刺すことができるだろうか?

私たち日本人は、関東大震災時に朝鮮人を殺したことを過去のものとして考えていいのか?

この本はそのことを突きつけてくる。今の、自分ごととして考えよと。