2023年11月4日

この記事を読んだ。

ohtabookstand.com

誤解を怖れずにいうと、ヒップホップミュージシャンにとっての大麻とは、ADHDを治療しすぎずに「その人らしさ」を残す、という魔法の治療薬なのかもしれません。

って、麻薬の別の側面が見えた気がして面白かった。

そこでこちらの本を読んでみた。

人は裏切るが、クスリは裏切らない。

これが、依存症の人たちの偽らざる気持ちらしい。

私たちは望むと望まざるとにかかわらず、人に依存して生きている。しかし依存症の人たちは安心して人に依存できない人たちだという。だからこそクスリに依存してしまうわけだ。クスリはいつでも同じような安心感を与えてくれる。

それゆえに「治療」は難しい。

松本医師は精神科医駆け出しの頃、依存症専門病院で悪戦苦闘していた。無駄だとわかりつつ、他に方法もないので健康被害をひたすら説き続けていたという。

そんなあるとき、治療に訪れた男性患者からこんなことを言われてしまう。

「うるせえなぁ。害の話なんて聞きたくねえよ!俺は自分の身体を使ってもう一五年以上も「臨床実習」してんだよ。クスリやりすぎて死んだ仲間だって見てきた。ところが、あんたがシャブについて知っているのは、本で読んだ知識だけじゃねえか。いくらあんたが専門家でも、シャブに関する知識じゃ俺には敵わねえんだよ」

さらに彼は顎をしゃくり上げていった。

「自分よりも知識のねえ医者のところにどうして俺が来てんのかわかるか?わざわざ長い待ち時間に耐えて、金まで払って病院に来る理由がわかるか?」

圧倒された私は、声の震えを必死で誤魔化しながら、平静を装って質問した。

「それは、な、なぜですか?」

すると、その患者は不意に声と表情をやわらげていった。

「それはな……クスリのやめ方を教えて欲しいからだよ」

クスリをやめること……それは、長年連れ添った伴侶との別離にも等しいという。

長年クスリと生きてきたことで、クスリは彼らの人生の重要な一部分になってしまっているのだ。苦しい思いをした記憶ばかりでなく、クスリがあったおかげで仕事で成功を収めたり苦境を乗り切ったりと楽しい思いをした記憶もある。まさにクスリと苦楽を共にしてきた人生だ。

その意味では、依存症患者にとって薬物はあたかも自分の「親友」「盟友」のようなもの、少し気取ったいい方をすれば、「ケミカル・フレンド」なのです。

そこで助けになるのが自助グループだ。

長年付き合ってきた「良き親友」と決別するためには、親友無き後の人生を思いめぐらせる必要がある。自助グループには、クスリを止め続けている人がいる。自分と同じように過去にクスリを友とし、現在は友と別れて生き続けている人たちがいるのだ。その人たちの姿は、自分の未来への希望にもなるのだ。

そればかりではない。

新しく入ってくる仲間もいる。その仲間の姿はかつての自分でもある。過去の自分を思い起こすことで、初心に帰ることもできるのだ。

「まあ、とにかく「この先の人生ずっとやめつづける」なんて考えると、先の長さに気が滅入ってやる気を失いそうになります。だから、私たちは薬物を使いたくなったときにはこう考えるようにしています。「今日一日だけ使わないでいよう。使うのは明日にしよう」って。で、明日になったらまた同じように自分に言い聞かせる。その積み重ねです。ひとりでこれをやるのは大変ですが、仲間と一緒ならやれます。人生においてもっとも悲惨なことは、ひどい目に遭うことではありません。一人で苦しむことです

一人で苦しむ……それはクスリを止め続けることだけではない。そもそもクスリと親友になり親友でい続けることになってしまった、根本のところはなんなのか?

松本医師の元で治療中だったある女性患者は、頑張って止めるからと笑顔で退院した翌日、クスリをやって警察に自首することになる。そして留置場で自死してしまうのだ。彼女は治療中こんなことを漏らしていたという。

「シャブを使うと、時間の流れが早くなるんです。だから、夜になると、シャブがほしくなる。シャブを使えば、いつの間には窓の外が明るくなっていて、ああ、朝だ、もう大丈夫だって思って、やっと深い眠りにつけるんです」

彼女にとって孤独な夜は恐怖の時間だったのではと、松本医師は振り返っている。トラウマ記憶を持つ者にとって、孤独に過ごす夜は魔の時間であるという。突如としてフラッシュバックに苛まれることがあるからだ。彼女が自死をはかったのも、このせいではないかと。薬物はその苦痛をやわらげてくれる役割を果たしていたのだ。

だから薬物依存の本質は、心地よい「快感」を求めるものではなく、「苦痛」を一時的にでも消してくれるという、いわば鎮痛薬の役割の方ではないかと。クスリで痛みや苦しみを少しでも楽にしたいという気持ちは自分にもよくわかる。

それゆえに、薬物使用が止まっても、今度は過食・嘔吐や自傷行為などが始まってしまうことがあるという。

「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけがわかんなくて怖いんです」

心の痛みはコントロールできないが、身体の痛みなら説明できるしコントロールもできる……彼らの痛みや苦しみがいかに深刻なものなのか、その闇が垣間見えるようだ。

松本医師が精神科医としての転機と語る一つが、少年矯正の現場に関わったこと。

暴走族の元総長という少年は、幼い頃の辛い記憶を語り始める。父親から虐待されていたのだ。

「消灯されると、恐怖でかえって目が冴えてきてしまって、身体は動かないし、声も出ないんです。この怖さを終わらせるには、とにかく落ちるように眠るしかないんですが、全然眠れません。朝になってあたりが明るくなるまで、ずっとそのままなんです」

ここにも激しい苦痛の中、魔の時間を過ごす者がいたのだ。

そして少年鑑別所で出会ったある少女。家では年の離れた兄から性的虐待を受け、学校ではいじめられていたという。親は気づかないか見て見ぬふり、教師も同様だった。「自殺しないために」隠れてリストカットしていたが、中学になったとき限界がくる。「誰かに気づいてほしいと思って」教室のクラスメイトの前でリストカットに及んだのだ。

それでも彼女の苦しみは理解されることはなかった。教師からも親からもひどく叱責され、絶望のなかに突き落とされる。意外なことにリストカットはぴたりと止んだという。

リストカットが止んだのはなぜか?

要するに、安心できない場所では自傷行為さえできない、ということなのだ。自傷行為は、少しならば安心できる環境、多少は自分の苦痛を理解してくれる人がいるかもしれない環境で起こる現象なのである。その意味で、少女がぴたりと自傷しなくなったのは、世界が安心できない、油断も隙もない、敵意に満ちた場所になったからだろう。

虐待被害と自傷行為は密接に関連しているが、虐待を受けている家のなかでは、自傷行為を行うことはないという。多くの被虐待児は、児相などに保護され、福祉施設などに移ってから突然自傷行為を始めるのだ。

この少年矯正の世界で学んだことこそ、冒頭に挙げた記事のタイトルでもある「困った人は困っている人かもしれない」ということだという。

その「困っている人」がする「困ったこと」の最たるものが自殺だ。

自殺は最後のヘルプサインだ。しかし死んでしまってからでは助けることはできないのだ。

松本医師は研究所に移った後、あるとき自殺予防研究部門で仕事をすることになった。

そこで多くの事例にあたる中でわかったのは「人はなぜ自殺するのか」「自殺する人としない人では何が違うのか」はっきりしたことはない、ということだった。

一方で重要な学びもあったという。

一つは、本人が現に強く自殺を決意したら、どんな治療も支援も届かないということだ。彼らは、自殺の完遂という目的のためには、医師の前で元気に見せかけることも厭わない。こうなるとうすうす「おかしさ」に気づいていても、退院を止めることはできないし、自殺を阻止することもできないのだ。

もう一つは、そうはいっても人は最後まで迷っている、ということだ。

ある男性は自殺当日、午前中いっぱいを遺書を書くことに費やしていたが、午後は買い物に出ていたという。そこで買ったのはボディソープとビタミン剤。そしてその夜自殺をした。彼はもう死ぬという時に、生きるために必要なものを買っていたのだ。

つい最近、↓この記事にこういうコメをつけたのは、この部分に影響を受けたからだ。

「ダムが好き」とタクシーに乗った若い女性、到着しても高揚する気配なし…運転手に「死ぬために来た」と言い泣き出す

こういうのその時死なせなかったって「結果」だけで良いんだよ。強く死を願ってたらどうしようもないってのと、そうはいっても最後まで迷うものというのは両立する。その迷いに足突っ込んで止めるのは大事なことだよ

2023/11/01 18:42

b.hatena.ne.jp

絶対死ぬと強く決意している人でも、その実ギリギリまで迷っている。

本当にそうだったかは永遠にわからないことだけど、迷ってる、もっといえば本当は死にたくないと思ってる、と考えるべきなのだ。私たちは、自殺を決意する人たちを死なせてはならないから。

意外にもちょっとのハードル(物理的な障壁)で、とりあえずの死を回避できることもある。

「自殺の名所」と化しつつあった場所で、作者が自殺防止対策への協力を要請されていたところ。結局、景観やら何やらとの兼ね合いで、50センチの高さの有刺鉄線しか設置することはできなかった。そんな高さでは効果がないと思われたところ。予想に反し翌年の自殺者はゼロだった!たった50センチでも、少なくともそこで自殺を試みる人は減ったのだ。

死なせないための工夫。

松本医師はある患者の最後の診察で、悔いの残ることがあったという。

いつもと雰囲気の違うその男性患者。彼が楽しい思い出を語り出すのを訝しむ松本医師。脳裏をかすめたのが「自殺を考えていないか?」ということ。しかしついぞ口に出すことはできなかった。次回の予約をたずねたときも「忙しくて予定がわからない」という彼の言葉を信じ、後日の連絡を待つことになる。

彼が死んで以来、松本医師は自殺念慮について問うことを恐れなくなったという。そして「次回の診察予約を取ること自体に治療的な意味がある」と確信を持つようになった。未来に予約がある、することがあるというのは、それだけで生きる意味になるのだ。

「クスリ」は、依存症患者にとって、文字通りの意味での「薬」だ。

苦痛に苛まれる時間や自殺念慮をやり過ごすための特効薬なのだ。彼らにとっては。

薬物依存症者の多くは、薬物さえ使っていなければ、あるいは、目の前に薬物がなければ、普通の人なのだ。

ところが、世間一般でイメージされる薬物及び依存症者の姿は、おどろおどろしいものだ。

啓発資料貸出・ダウンロード | 福岡県薬物乱用防止啓発サイト

薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」ホームページ

特に、学校の啓発活動のスローガンとして有名なのが「ダメ。ゼッタイ。」だろう。

松本医師は、この「ダメ。ゼッタイ。」と、各地で行われる薬物乱用防止教室の“弊害”は無視できないものだという。

弊害?

(幸いにも)薬物と無縁で生きている人は疑問に思うことだろう。私もそうだった。一回でも薬物をやればもう取り返しがつかない……そう脅し上げることに効果があるのではないかと。

現に学校が求めているのもそういう類の講演で、あるとき依頼を受けた松本医師は、真に役立つ教室にするため、学校側に一つの提案をしたが却下されてしまったという。それは、薬物依存症から回復を果たし、今は依存症リハビリ施設の職員として働いている人に、体験談を話してもらうというものだった。学校側の理屈は、依存症から回復できる実例を見せてしまうと、薬物にハマっても大丈夫(回復できる)と誤解されてしまうからということだった。だから、1回でもやると人生が破滅するという風に、薬物の怖さを大いに盛って話してもらいたいとお願いされたという。

しかし、意外にも実際の薬物の初体験は、こんな破滅につながりそうな決定的なものではなく、せいぜいアルコールやタバコと同様なもので「拍子抜け」に終わるという。

若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。その瞬間から、彼らは、薬物経験者の言葉だけを信じるようになり、親や教師、専門家の言葉は、耳には聞こえても心には届かなくなる。これが一番怖いのだ。

薬物使用で逮捕された著名人に対する報道も、影響が大きいものだという。

ときに社会的制裁でも課すかのように、非難轟々懲罰的な報道がなされることがある。繰り返される厳しい論調に、たとえ回復しても自分の戻る場所はないという絶望感から、治療意欲を喪失してしまう患者は少なくないという。そして報道に差し挟まれる薬物のイメージショットに薬物欲を刺激され、再使用につながってしまうケースもあるという。

「薬物依存症者の多くは、薬物さえ使っていなければ、あるいは、目の前に薬物がなければ、普通の人」だと松本医師は言った。

それどころか、子供たちを薬物に誘う人たちは、子供たちにとって魅力的であるばかりでなく“優しい”人たちでもあるのだ。

彼らは、これまで出会ったどんな人よりもやさしくて、真摯に自分の話に耳を傾け、はじめて自分の存在価値を認めてくれた人、自分にとって一番大切な人だ。そんな人が、手を差し伸べてこういうのである。

「友だちになろうよ」

薬物を勧められた際に「ノー」といわないのは、当然ではなかろうか?

脅し上げる啓発キャンペーンとして、古くは「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」というコピーも思い出されるが、こうした“薬物をやらないこっち側の人間”と“人間をやめた薬物依存者”と分断する予防教育こそ、偏見や差別意識を醸成してきたのではないか?と松本医師は言う。その結果薬物依存者の回復が妨げられ、障害のある人たちも引っくるめて受け入れ一緒に生きていくという理想の実現をも阻んできたのではないかと。

そもそも「ダメ。ゼッタイ。」は、

"Yes To Life, No To Drugs"

に由来しているという。「ダメ。ゼッタイ。」には「Yes To Life」部分が抜け落ちてしまっているのだ。

松本医師は「この誤訳のせいで、わが国の薬物対策は、自分の「人生にイエス」といえない人、生きづらさや痛みを抱えて孤立する「人」たちへの視点を失ってしまった」という。そして「ダメ。ゼッタイ。」が、薬物依存者を孤立させ、彼らを回復から遠ざける呪文」になってしまっているという。

だから、私は機会を捉えてはくりかえしこう主張しなければならない。

ダメ。ゼッタイ。」では、絶対ダメだ、と。

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松本医師は医学生時代の解剖実習時に、印象的な体験をしている。

身体を解体して見る、部分を観察するということから学ぶのは、生命の神秘や尊厳ではなかった。雑にいえば解剖実習は作業であり、解剖される献体はただの物体なのだ。

ところが実習最終日、棺の中に遺体の肉片や骨片を納める作業をしていたときのこと。

棺の蓋に、遺体の名前が書かれているのが見えたのだ。

その瞬間、後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃が走り、同時に遺体に対する畏敬の念が湧き起こったという。

大仰に聞こえるかもしれないが、そのときすべてを悟った気がした。名前こそが────固有名詞こそが────その人の生きた証なのだ、と。誰かに愛しい思いを込めて呼ばれ、あるいは、憎しみをもって呼び捨てられるなど、名前をめぐってさまざまな関係性や物語があったはずだ。

その体験こそ「そのような関係性や物語を扱う医者」は何科だろうかと考えを巡らせた結果が、精神科を志すきっかけだったというのだ。

福田村事件の記事↓で書いたが、「みんな名前があるんです」と一人一人の名前を呼び始めたシーンを思い出した。

fireescape.hateblo.jp

しかし、物体としての人体を診るという、各科を回る研修医時代の経験が救急外来の当直アルバイトで大手柄ともいえる診断を引き出したも確かだ。その当直で担当した患者と、今度は精神科で運命的な“再会”をする(とはいえ患者本人は昏睡状態だったので医師を覚えていない)エピソードには、思わず鳥肌が立った。松本医師はこの患者を担当したことで、精神科医の本随は「患者自身の物語にちゃんと耳を傾ける」ことだと理解し、精神科医を目指す確信を得たのだ。

 

精神科医としてどんな患者が一番好きかと問われたら、私は迷うことなく「覚せい剤依存症」と答えるだろう。

え、それは一体どうしたわけで?

と(幸いにも)クスリを知らない私のような人は訝しむことだろう。

依存症にはアルコールや処方薬、市販薬といった“合法のクスリ”もある。法の一線を越えた違法薬物つまり覚せい剤を使う彼らには、“合法薬”依存症患者にはない独特の潔さ、清々しさがあるというのだ!

精神科医の仕事は、クスリじゃない「薬」を処方する仕事でもある。しかしその処方薬に依存してしまう患者もいるのだ。処方薬に依存する背景には「苦痛の緩和」があるという。しかしそもそもの処方目的自体が「苦痛の緩和」なのだ。医師も患者も苦痛の緩和を求めて、それぞれ投薬し服薬するわけだ。その「ベンゾ」と呼ばれるベンゾ系薬剤への依存は、覚せい剤のそれと比べると格段に厄介だという。

一つはきっぱり止めることができないこと。減薬という方法しか取れないのだ。もう一つは長期間の乱用では重篤離脱症状をきたすので、入院治療しか方法がないこと。意外にも覚せい剤には離脱症状はほとんどないので(それが懲りない要因でもあるようだが)通院治療でこと足りるのだ。そして最も厄介なのが他の医療機関との調整だという。ベンゾ依存症患者はタブレット菓子感覚で口に放り込んでいる。だから投薬を受けるためになんと平均12箇所もの通院先を持っているという。まさに合法的にクスリを手に入れているというわけだ。

松本医師は「精神科医は白衣を着た売人」という強烈なキャッチコピーで、安易なベンゾ処方に警鐘を鳴らすことに努めたというが、やはりこれは諸刃の剣だった。同業者からは強い反発と怒りをかい、メディア報道のせいで服用を勝手に中止する人が出たり、恥の意識から依存症医療への足が遠のいてしまったりもしたからだ。

これだけ重篤な副作用があるのに、なぜ処方を止められないか。それがいちばんコストも労力もかからないからだ。裏を返せば、一般の精神科医療や地域精神保健福祉サービスは、コストや労力を考えなければならないほどの状況だということだ。

実際に依存の問題を解決すべく、アメリカではメディケード(低所得者・障害者向けの医療保険システム)において、対象薬剤から外すという制度改革が行われたことがあった。しかし結果的に医療費が増大したり、代替薬剤の処方により高齢者の転倒による骨折が増大するなど、デメリットの方が目立ったため、再び対象に戻されるという事態になっている。

 要するに、特定の薬剤の処方を禁じたところで、患者側の「不眠」や「不安」に対する治療ニーズが消えてなくなるわけではない。結局は、代替的な薬が必要なのだ。そのような場合、ベンゾは抗うつ薬抗精神病薬より、起立性低血圧や薬剤性パーキンソン症候群を引き起こすリスクが圧倒的に低いなど、転倒しやすい高齢者には有用な面もある。

 悪いのは薬ではなく、使い方なのだ。

悪いのは薬ではなく、使い方……悪くないクスリであっても、使い方が悪ければ依存症になり得るのだ。

松本医師が嘱託医を務めていた、ダルク(薬物依存症からの回復支援施設)の施設長はこんなことを言っていたという。

「危険ドラッグが、一時期あそこまで盛り上がった原因って、結局は日本人の遵法精神のせいだと思うんですよ。逮捕されて犯罪者としてコミュニティから排除されるのは嫌だけど、「隙あらばハイになりたい」とたえずチャンスをうかがっている感じっスね。あるいは、「逮捕されなきゃいいんだろ」みたいな。少なくとも俺にはそんなふうに見えます。そんでもって、最近は処方薬や市販薬みたいな医薬品の乱用・依存が増えているわけですよね。その意味では、日本人の「逮捕されずにハイになること」への執着というか、異様な情熱はもうすごいっスよ」

逮捕されずにハイになれる、その最たるものはアルコールだ。危険ドラッグを止めた後、アルコールにハマってしまう人も少なくないという。彼らはアルコールに弱いばかりでなく、味が苦手という人も多い。そもそもアルコールにハマれるならとっくにハマっているのだ。そんな彼らに好まれるのが、近年台頭してきたストロング系のアルコール飲料だという。ストロング系に移行してしまった中には「あれは完全に次世代の危険ドラッグ」と実感を語る者もいるくらいだ。

聞いていた件のダルクの施設長は、「やっぱり最後にたどり着くのは、世界最古にして最悪の薬物、アルコールなんだな」と呟いたという。

傷害や殺人、強姦など凶悪な暴力事件の多くに、アルコールによる酩酊が関わっているというデータもある。飲酒運転による交通事故被害も含めると、社会的弊害の深刻さは無視できないレベルなのではないかと。

自分に対する暴力、つまり自殺との関わりも指摘されている。救急搬送された未遂者の体内だけでなく、完遂者の遺体からも、3〜4割の人たちからアルコールが検出されるという。調査によると、国内のアルコール消費量と男性の自殺死亡率には相関関係が見られるという。

松本医師が長年依存症の専門家として携わる中で、あらゆる薬物のなかでもっとも心身の健康被害が深刻だと実感しているのもアルコールだという。覚せい剤依存の方が身体的にはよほど“健康的”だというのだ。

ここまでくると、松本医師はちょっと覚せい剤について甘いとこがあるんじゃないかと思えてきてしまうが……。

本書では触れられていないが、依存症対策で松本医師が目指すべきと考えるところは「ハームリダクション」の方向だという。

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ハームリダクションは、欧州の一部で取り入れられている政策だ。自分も聞いたことがあるけれど、薬物使用に刑罰を課すことを止め、管理下のもと安全な量の薬物を安全に与えるというものだ。なかなか日本では難しいだろうなと思った覚えがある。厳罰を課して隠れて深刻な事態に陥っていくよりも、適切な量のクスリを用意することで結果的に支援につなげ回復を促すことができるというのは画期的なことだ。

問題を抱えている人を孤立させない……「人生にイエス」という気持ちになるためには、そしてドラッグという親友とさよならするためには、厳罰ではなく人とのつながりが必要なのだ。

この本は、クスリそのものが悪いわけではなく、クスリを使わざるを得ない人がいること、クスリを使わざるを得ない人がクスリではなく本当は何を求めているのか、そしてクスリを使わざるを得ない人は決して自分と無縁の存在ではないということを、教えてくれた。