2023年10月17日

この本を読んだ。

多くの生きもの、とくに動物は移動して暮らしている。だから優れたナビゲーション能力を持つものが多い。

人間だって生きものだ。だから人間にもそういう力がちゃんと備わっているのだという。

我々の祖先だって移動して暮らしていた。狩猟採集生活を営んでいたからだ。そこには既存の地図などない。祖先はその活動を通して「自分たちの地図」を作り上げていたわけだ。彼らの頭の中に。でなければ生き延びることはできなかったはずだ。

作者は言う。

 私たちは骨の髄まで探検家である。そして私たちの空間能力は、人間を人間たらしめる根本的な要素である。信じられないかもしれないが、GPSに依存している私たちにも、いまだに空間能力が備わっている。(略)子どもは生まれながらの冒険家である。だが、その衝動を発揮する自由は、常に与えられているわけではない。子どものときに、歩き回ったり自身の世界を押し広げたりすることが、どの程度許されていたかは、どんな大人になるかということに深い影響を与える。(32ページ)

子供にはうろつきまわる権利があり、うろつきまわることで世界を知っていく。道草や寄り道は子供を大いに成長させるというのだ。

以前読んだこの本↓を思い出したが、これも道草の意義について書かれたものだった。

大人はすぐ、寄り道しないで真っ直ぐ帰りなさいというが、子供にとって道草は大事な成長プロセスの一つでもあるのだ。もちろん大人のいうのは子供の安全を願ってのことだけど。

思うに、昔はもっと子供に自由が許されていた。許されていたいうより、子供だけで移動せざるを得なかったともいえる。子供がどこまで一人でうろつきまわれるかというのは、大人や社会の意思にかかっているからだ。私自身、子供の足で徒歩20分くらいの幼稚園に一人で通っていた。

子供に行動の自由を与えるのは、今の時代の親としてはちょっとした勇気がいる。

交通事故の心配は尽きないし、何かトラブルに巻き込まれたらという不安もあるからだ。

それでも私には、子供の行動を止めることはできなかった。彼は出たがっていたからだ。

息子は小学校低学年の頃から野鳥観察が趣味だが、せがまれて連れて行った鳥見の旅行先では、必ず朝早く一人で飛び出していっていたものだ(親は眠すぎて付き合えないので)。知らない土地で道に迷わないのかとても心配していたのだが、不思議なことに指定した朝ご飯の時間には必ず宿に戻ってくる。

高学年になってからは、電車とバスを乗り継いで片道2時間はかかる探鳥地に出かけていった。その後首都圏を離れ地方の県に引っ越してからは、自転車でどこまでもうろつきまわっていた。家から数十キロも離れたところから、これから帰ると平気で電話をかけてきたものだ。

ちなみにこの当時携帯を持たせていなかったので、公衆電話からかけてきていた。公衆電話があちこちで撤去され探すのも難しくなっているときだ。これもまた不思議だが、彼は必ず魔法のように公衆電話を探し出して、きちんと連絡を寄越してきていた。

 「自由な遊び」から学べることは空間の認識と、そのなかで動きまわる自信である。どちらもナビゲーションとウェイファインディングの基本となる重要な素質だ。(略)

 空間認識とナビゲーション能力は自信に大きく支えられる。知らない場所で道が分からずに不安になれば、もっと道に迷いやすくなる。不安は、意思決定を混乱させかねないからだ。何事であれ、やり慣れていないことに自信を持つのは難しい。子どもの頃に、自分が家から離れたところで道や方向を難なく見つけられるのを知ったならば、将来どこにいても道を見つけ、知らない場所でもうまくやっていけると思えるはずだ。このことがいちばん身につくのは子ども時代である。成長してリスクを嫌うようになると、その最初のステップを踏み出すのが難しくなるからだ。

 人は自由な遊びを通じて、空間に対する不安を感じにくくなり、ウェイファインディングに巧みになる。子どもの頃きわめて狭いホームレンジで暮らした人は、大人になると、ナビゲーション行動に不安を感じるようになる。このことは特に少女に当てはまることが多い。様々な理由から、親は息子より娘に対して、行動の自由を制限しがちだ。(略)だがこのことは、成長後の世界の感じ方・捉え方だけでなく、あらゆる空間能力に深刻な影響を与え、その後の人生で得られる機会を狭めることになる。(43〜46ページ)

確かにうちも、子供が女の子だったらこれほど自由にさせなかったかもしれない。女子の方が男子と比べ、どうしても危険な状況に陥る可能性が高いからだ。母親自身があれやこれやの危険を経験してきているからこそ慎重にならざるを得ないのだ。

今は学校の統廃合などで、スクールバスや自家用車で通学する子供も増えてきている。もはや寄り道という概念が入る余地すらないのだ。子供の安全を考え一人で行動させないという風潮も強い。致し方のこととはいえ、高い安全性と引き換えに子供たちが失うものも大きいのかもしれない。

 

興味を引かれたのが、空間認知能力を高めることによって認知症をある程度予防できるのではないかということ。今や道案内はGPSに依存することが多いけれど、テクノロジーに頼りきりで空間認知能力を使わないとどんどん低下するばかりだというのだ。認知症の人はいわゆる「徘徊行動」をすることがあるが、これは自分がどこにいるかわからないという不安から起こることだ。つまり彼らは「道に迷っている」状態なのだ。たとえ道に迷ったとしても戻ってこられる力と自信を取り戻すことで、迷いにくくなる=認知症になりにくくなる、ことが考えられるという。うちの車も昔はカーナビがなくて、ある程度のルートと地図を頭に叩き込んでから出かけていたものだが、面倒であってもこれからも続けるべきなのかもしれない。

 

自分が本家で書いてるブログとのつながりも面白かった。

太平洋横断ぼうけん飛行(第112号) - こどもと読むたくさんのふしぎ

を書くときに調べて出てきた、ハロルド・ブロムリーとハロルド・ゲッティ(ギャティ)の話。ゲッティは太平洋横断飛行こそ失敗したけれど、のちにワイリー・ポストとともに世界一周飛行の記録を樹立している。彼は"Prince of Navigators"と呼ばれ、優れたナビゲーション技能を身につけていたそうだ。

彼が書いた本↓には、自然のサインを使って行うナビゲーション法が紹介されているという。

 

南極の スコット大佐とシャクルトン (たくさんのふしぎ傑作集)(第107号) - こどもと読むたくさんのふしぎ

で取り上げた、フランク・ワースリー(ワーズリー)。シャクルトンは、探検隊を生還に導くための最後のミッションに至るまで彼を連れ歩いている。彼の優れた航海能力を高く買っていたからだ。荒れ狂う海の上、激しく揺れる船上での六分儀操作。しかも計測のチャンスはいつ顔を出すともわからない太陽頼みと来ている。そんな粗雑なナビゲーションで無事到着できるとは、ワースリー自身も懐疑的だったようだ。

 

舟がぼくの家(第167号) - こどもと読むたくさんのふしぎ

で紹介したマウ・ピアイルグ(ピアイルック)。伝統的航海術に長けていた彼が、この本に登場するのは当然ともいえる。この伝統的航海術は、航法師その人が経路のログを記憶することによって成り立っている。注意深い観察と記憶頼みという驚異的な仕組みなのだ。

ピアイルグは、こんな言葉を残しているという。

「決して忘れるな。それは鉄則だ。忘れることは、迷うことだ。そして、迷ったと思った時点で、おまえは終いだ。」

 

『舟がぼくの家』でも触れたが、カナダ北極圏において、まさに自らナビゲーションの実践をおこなっているのが、角幡唯介だ。

極夜の探検(第419号) - こどもと読むたくさんのふしぎ

こっちのブログでも紹介したとおりだ。

fireescape.hateblo.jp

彼のやっているのは、子供がうろつきまわって世界を知ろうとする試みそのものだ。探検家や冒険家というのは、もしかしたら、子供の心をいつまでも失うことのできなかった人種といえるのかもしれない。