2024年2月28日

図書館に行ったら新着の棚に、市立病院誌みたいなのが入っていた。広報誌の類ではなく症例みたいなのが載った医誌だ。昔こういうの読むの好きだったので、何気なく借りてみたところ……なかなかすごい症例が載っていた。Lipschutz潰瘍という、多くは性交渉歴のない若い女性に見られる病変だ。外陰部に腫れや痛みを生ずる。明確な診断基準がないため、性感染症や、外陰ヘルペス、Behchet病などを除外してはじめて診断に至ることが多いという。珍しいから症例としてまとめられたのだろうが、カラー写真で初期病変の所見と治癒後の所見が載っていて、なかなかのインパクト。自分の外陰部の写真がこんな形で本に載ることになろうとは、たぶん患者本人も思ってもみなかった事態だろう。

2024年2月26日

四年生読み聞かせ。

こちらは、すっかり春!みたいな雰囲気から一変、寒の戻りで手袋が手放せない。ちょうどいいお話だ。昨年、三年生に読んだことがあったので、知ってる子もいるかなあと思ったが、よく聞いてくれていた。さすがもう五年生に上がるだけあって、聞く体勢もきまってる。

もっと気楽に聞いてくれてもいいのにって思う気持ちもあるけど、読み聞かせ講座の先生の、読み聞かせといえども、学校の場と時間をお借りしてやるんですから学習の一部なんですよ、という言葉が思い出される。授業と同じく、子供たちには「その場から離れる自由」はないでしょ?と。一方で授業と違って、ちゃんと聞いて何か自分の意見を考えておかないといけないみたいなプレッシャーはない。その場にいることは必要だけど、聞きたくなければ聞かない自由はあるのだ。

たしかに読み聞かせの時間は、学習の範疇に入るのかもしれないが、学校の先生がやるでもなく、授業という形態でもない。そんなあいまいな揺らぎの時間でもあると思う。たとえ耳に入らなくても一息つける時間になればいいかなと。週明け忙しないときにやるのは子供たちも落ち着かなくてどうなのかなと思ってたけど、月曜日だからこそゆっくりする時間が必要という学校側の考えなのかもしれない。

 

一方、斎藤惇夫のように“素人”の読み聞かせに手厳しい意見を持つ人もいる。子供の絵本について知識もなく、本を通して伝えたいこともないような人が、学校にズカズカ入って読み聞かせを披露するのはどうなのかと。素人の読み聞かせなんて、リズム音痴の自分が音楽を教えにいくようなもんだろ?と。

本来読み聞かせは担任の先生がやるべきだとおっしゃる。子供たちのいちばん身近にいる担任こそ、読み聞かせするのにふさわしい人だと。先生が懸命に選んだ本を、年間通して読み続けてくれるからこそ、子供たちは未来につながる読書体験をすることができるのだと。

そう言われるとぐうの音も出ないのだけど。

2024年2月24日

メインブログで、既刊号すべてのエントリを書き終えたので、こちらでひっそり報告。

buchicat.hatenablog.com

既刊号最後のエントリは、ちょうどブログを始めた同日付に合わせてみた。書き始めた当初はなんと、毎日書いて更新することを目指していた。短めにささっと書いて、毎日更新したら1年くらいで書き終わるだろうって目論んでたのだ。その当時の既刊は380くらいだったので。そんな目算は大幅に外れて、結局7年もかかってしまった。9歳だった息子はもう高校生になろうとしている。「たくさんのふしぎ」を手に取ることも少なくなった。いつか大人になったとき、家でこんな科学雑誌読んでたなーこのタイトル覚えがある懐かしいとか、ふと思い出すことになるのだろう。それまでは「たくさんのふしぎ」と、しばしのお別れになるのかもしれない。

2024年2月19日

三年生読み聞かせ。

図書館でスタッフの方とお話ししてるうちにすすめられた本。こういう選書もいいものだ。「読み聞かせに向く本」から選んでいるとはいえ、やはりどうしても自分好みに偏りがちになってしまう。

いちごの時期だし、季節はずれのあたたかさってシチュエーションもぴったり。オチが弱めなのでどうかなあと思ったが、よく聞いてくれていた。

ちょっと短めだったので、『それ ほんとう?』から、いちごにちなんで「い」を読んでみた。3年生にはなじみのない言葉や言い回しが多かったと思うが、面白そうに聞いてくれた。

このクラスにお子さんがいるボランティアさんに、落ち着いててよく聞いてくれますねって言ったら、低学年のころはこんなんじゃなかったという話。何人かは立ち歩いてたり、ざわざわしたりで、聞く体勢ではなかったという。3年生のこの時期に入ってようやく整ってきたというのだ。1年生、2年生と先生たちが根気強く言い聞かせてきて、今の姿があるのだという。本当に成長しましたね〜って感慨深そうだっだ。

一方で、最近1年生のクラスに見守りボランティアに入ることがあるけど、ボランティアの手を借りるくらいなので、そりゃまあひどい有様。読み聞かせのときも机の上に座っちゃってたりしてる子もいるくらいだ。よくいえば元気で自由、悪くいえば集団生活のいろいろがわかってない。もちろん全員ではないけれど、一人二人ちょっかいかけ合ったりが始まると、全体に波及してざわつくことになる。もちろん補助の先生方もかわるがわる入ってくださっているが、本当にまあ先生の指示が通らないのだ。とりあえずみんな、なんとか一日無事に過ごしてケガしたりさせたりしなければOK!!って感じだ。今日は月曜日、週のスタートのしんどさも相まって、廊下で寝転がってぐずったり、いけないことして先生にお説教されたりをちらほら見かけた。彼らも1年生、2年生と過ごすうちに、だんだんと成長して、いずれ落ち着いた姿を見せてもらえるようになるのだろうか。

本当に学校という場は、子供と毎日関わってくださってる先生方の不断の努力によって成り立っているものだなあと改めて思った。読み聞かせは、先生方が整えてくださったその場をちょっとお借りしてるに過ぎないのだ。

2024年2月5日

五年生読み聞かせ。

時間までに担任の先生がいらしてなかったが、5年生なので勝手に始めさせてもらった。読み終わるまで12〜3分はかかるし、その後に差し障りがあるといけないので。こういうの読み聞かせを始めた当初は、待ってた方がいいかなとかいろいろ迷うことも多かったけど、年のせいもありちょっと図々しくなってきた。

先生の主導がないので最初はざわついていたが、お話が進むにつれて静かになり、聞き入ってくれてるのがよくわかった。遠目が利く本じゃないけど、前方の子は話している私ではなく絵本の方をちゃんと見ていた。お話の力だなあ。これだから読み聞かせはやめられない。たとえ読み方が上手くなくても、お話自体が助けてくれるのだ。

この絵本は二年生の教科書で紹介されているが、きちんと面白さがわかるのは中・高学年くらいからだと思う。というようなことをベテランのボランティアさんに話したところ、深く同意してくださった。

先生は途中から入ってらしたが、最後見送られる時、遅れてしまってすみませんとおっしゃったので、こちらも勝手に始めてしまってすみませんと伝えた。先生の応対もクラスによってそれぞれで面白い。こうして扉のところで見送ってくださる先生もいれば、ボランティアが教室を出る前にもう子供たちに指示を出し始める先生もいる。ずっとやってるとわかるけど、読み聞かせに対する温度差も先生それぞれに違うものだなあと。